【JAPONISM】とは、主に日本文化に影響を受けた美術様式のことを指すが、主観を変えると百年以上も前に、我々日本人が伝承してきた【技、伝統、美意識】が、ヨーロッパをはじめ世界中のクリエイター達を魅了したということだ。
私たちはこれまで、守るべき伝統技術を大切に靴造りに取り組んできた。これからもその技をもって時代を超えた価値観を創造したいと思う。
もし百年後、靴に【JAPONISM】が起きるならば、その中心にいるのは我々、【三陽山長】でありたい。
時代を超えた価値観と守るべき伝統技術を旨に、三陽山長は
百年後も見据えた靴造りを続けよう。
百年後のジャポニズムへ。
三陽山長
履き込むほどにその真価を発揮する革
ブランドをスタートさせた当初は世界の一流といわれるタナリーに足繁く通いました。それからおよそ20年。現在ではタナリーの名にとらわれることなく、養われた目を信じてそのときどきで最良の革を取り揃えています。買い付けの条件はひとつに最低でも1.2㎜の厚みがあること。耐久性を考えたときには譲れない部分です。そしてもうひとつに肌理が密であること。一見、その差はわからないかも知れない。しかしそれは何度となく底を貼り替え、クリームを塗り込んでいったときに歴然とした差になってあらわれてくる微差です。
日本が誇る古き佳き職人仕事
三陽山長の地力をはかろうと思えば、浅草のはずれにある工場の存在抜きにははじまりません。戦後ほどなく創業、以来、グッドイヤーウェルトを研ぎ澄ましてきたくだんの工場は、これまでの足跡を考えれば拍子抜けするほどにこじんまりとしています。それはひとえに量よりも質に重きをおいた結果。三陽山長がその復活に一役買ったヤハズ(コバ加工のひとつ)を筆頭とする職人仕事は、そんな工場だから可能となったものです。かれらの愚直な性分に共振した三陽山長は、全幅の信頼を寄せて、がっぷり四つに組んでいます。
ほんのすこしまえまで日本の靴産業は大量生産、産地移転の流れに抗えず、斜陽産業を象徴するひとつでした。しかしそれもいまは昔。ジャパン・メイドは海外からも視線を注がれていますが、その嚆矢となる存在が三陽山長であると自負しています。国産の復権を掲げて2001年にデビューした三陽山長に勇気づけられるように、靴の一大産地である浅草は息を吹き返したのです。
三陽山長の名を知らしめたマスターピースがストレートチップの「友二郎」とUチップの「勘三郎」です。履いた瞬間耳に心地いい空気の抜ける音がする、二の甲を低く抑えた足に吸いつくシルエット、普遍的な美しさをたたえるラウンドトウ、あるいはわずか1・4㎜の断面を縫い合わせるスキンステッチ。その靴からは間違いなく、日本でつくることのプライオリティが感じられるはずです。
勘三郎
友二郎
菅原 幸裕氏靴専門誌『LAST』編集長
そもそも発端は、英国の高級既製靴に伍する日本製の靴を、ということだったと記憶している。
時は流れ、日本人靴職人の名が世界で取り沙汰される昨今、三陽山長は、日本の既製靴を牽引する存在だ。
その魅力は、例えば「極み」シリーズに代表されるような、吟味された素材選びと高度な技術のバランス、その結果表れる巧緻なディテール、そして繊細な存在感にある。
英国靴を追求し、たどり着いたのは、日本でしか生まれ得ない新たな紳士靴の品質だった。
長嶋 正樹氏シューズ プロデューサー
当時日本の靴は欧米の靴に比べ評価が低かった。長年インポートの靴を取り扱っていて、気づいた事がある。日本の靴職人さんの技術は欧米の靴の技術に負けていないのではないかと。欧米の靴に負けない靴を作ろう!(これが動機である)
それでは何が見劣りして評価を下げているのか?一番大事な革が良くなかった。決定的に違うのはアッパーの素材、革である。そしてフレンチカーフを使った。
欧米の靴にはない日本独自の技、ソールエッジの矢筈掛け。欧米の靴に見た目も匹敵する技、スキンステッチ。1足1足手作業で時間を掛けて仕上げをすることで味が出て見た目にも良くなる。直接足を包むライニングの革にも良いものを使い、目に見えない所に気を配った。品質に拘り、嘘のない靴作り。
日本の職人さんに作って貰う靴だからブランド名も日本の文字を使おう。品番も単に数字ではなく、職人さんを連想する品名にしよう。友二郎、勘三郎、源四郎、長五郎と数えると数字の連番になる様にした。
山長の出現以降、日本の靴作りが評価され、靴職人を目指す若者が増えた事は事実である。