日本のMr.Paul Stuart、下元一朗が語る「青山店」の記憶


 

ポール・スチュアート青山店が移転のため、2月11日(火・祝)をもって閉店させていただくことになりました、しばらくのお休みを経て、新たな場所にてポール・スチュアート青山店は2020年11月に生まれ変わる予定です。 「See you soon」を告げるポール・スチュアート青山店の歴史と同じ39年間、人生をともにしてきたショップスタッフ下元一朗の青春プレイバック!をお送りします、また、2月8日(土)・9日(日)の2日間、「ポール・スチュアート青山店 JAZZ EVENT」の開催が決定。お買い物を楽しみながら、素敵なJAZZの演奏をご堪能ください。

 

Photo. Takashi Kobayashi(itarustudio) / Text. Makoto Kajii
Edit. FUTURE INN

 

 

 

1981年4月、ポール・スチュアート青山店オープン

 

ネットで「1981年4月の出来事」を検索すると、昭和56年・干支は酉(とり)年。4月12日にスペースシャトル コロンビアが初のミッションで打ち上げられています。同年はロナルド・レーガンが第40代アメリカ合衆国大統領になり、フランスではミッテランが大統領に就任。7月にアメリカでエイズが発見され、同月ダイアナ妃がチャールズ英皇太子と結婚。国内では、神戸でポートピア’81が開催、ピンク・レディーが解散し、写真週刊誌「FOCUS」創刊。黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』、田中康夫『なんとなく、クリスタル』がベストセラーに、寺尾聰の『ルビーの指環』や五輪真弓の『恋人よ』などがヒットして、「ハチの一刺し」が流行語になりました。

そんな81年4月にオープンしたのが、ポール・スチュアート青山店です。青山店を象徴し、顔になっている重厚な石垣は、大正時代に、この地にあった小山を削って道を切り拓いた際に土留めとして築かれたものの一部がそのまま使われていて、それは「伝統的なものを尊重しつつ、現代的に表現する」というブランドの姿勢にも見事に重なります。

 

 

オープン当時は、日本中からアパレル関係者が店を視察に来ました

 

1958年生まれの下元さんは、青山店がオープンした4月に新卒で入社。「オープン時の販売員は25人ほどいましたが、全員新卒でした。当時の社長から、世界に通用する新しい専門店を作るには、頭の柔らかい若手が店を担えと言われ、自分たちの中の理想を追いかけてスタートしました。当時のメンバーで残っているのは私一人です」。

下元さんは青山店と、その半年後にオープンした銀座店の両方で店長を歴任。現在は3回目の青山店勤務で、「都合20年以上はいますね」と言います。「オープン当時は日本中からアパレル関係の人が店を見に来ましたね。こんな個性的な店は他にありませんでしたから」。

81年頃の表参道には、オープンカフェの先駆けだった「カフェ ド ロペ」、丹下健三の設計で、地下にアンティークマーケットがあった「ハナエモリビル」、青山店の前には同潤会アパートなどがあって、「表参道は人もクルマも少なくて、静かな雰囲気でした。でも、今より飲食店が多くて、夜になると大人の街になったものです」。

 

 

「ここのおかげで今の自分がある」というお客さまとの出会い

 

青山店の閉店を告知して最初に迎えた週末、「昔のお客さまも含めてたくさんの方が来店してくださいました。中には、『この店には青春時代が詰まっている』とか、ポール・スチュアートの服を着て仕事をするのが励みになって、『ここのおかげで今の自分がある』と言われる方もいます。でもそれは私が長く働いている理由とまったく同じなんですね」。

81年のオープン当時はトラッドブームで沸いていた時代で、「20代のお客さまもたくさん来店してくださって、オープン以来のお付き合いのお客さまもたくさんいます。私とお客さまが一緒に歳を取ってきているのは、とても恵まれていますね。お客さまあっての私なので、励ましが一番力になっています」。

ポール・スチュアート一筋の下元さんにブランドの魅力を尋ねると、「一番の魅力はブランド哲学ですね。洋服に対する考え方がとても好きです。2014年春のカタログに掲載した斎藤融さんのエッセイ、『“哲学を纏う”ポール・スチュアートというスタイル』の文章が今でも大好きで、当時の若手社員に、この文章がすんなり入って来るようになれば一人前だと言ったものです」。

 

 

青山店の隅々にまでいっぱい詰まった思い出とともに

 

青山店の内装は少しずつ手を加えていますが、「オープン時の内装はアメリカ人のデザイナーによるもので、NY本店ととても似ていました。2階のフィッティングルームは、トップから光りがもっとよく入って明るかったですが、当時とほとんど変わっていないですね。1階には池もあったんですよ」と振り返ります。

 

 

「青山店で一番の思い出ですか? 自分が入社してすぐ可愛がってくれたお客さまがいて、2年ぐらい前に35年ぶりに来店されて、自然に入口で抱き合いましたね。あと、医者の方から、パリの学会でスピーチをするので洋服をコーディネートしてほしいと言われ、1ヵ月後にまた来店されて、スピーチより服の方が誉められたよと喜ばれ、それからお付き合いが始まりました。そういうお客さまとの出会いは本当に財産ですね」

亡くなった内田裕也さんが、スーツをビシッと着て来店し、カラフルな色がたくさん揃っていたゴムのカフリンクスを一つずつ買っていくのもよく覚えていて、「礼儀正しくて、とてもダンディでした」というエピソードも。

 

 

入社後すぐ一緒に購入した、リバーシブルのストールとアンライニングのグローブ。「カシミヤ×シルクのストールは暖かくて色も好きですね。グローブは洗えるので、革がいい感じで柔らかくなっています」。立ち襟のライナー付きのコートには苦い思い出があるそうで、「オーストリア製のコートで、NY本店ですごく売れているという情報があり、日本でも買い付けたんですが、当時の日本にはこういう変則的なデザインはなくて、まったく売れませんでした。それを見かねて購入したのですが、着るほどにどんどん好きになっていきました。軽くて暖かくて、カジュアルにも着られるので、最近また出番が多いですね」と笑います。

 

「新しいポール・スチュアートを作りたい」という思いを支えたい

 

青山店の閉店を初めて聞いたときは、「それは残念でしたが、時代の流れというものもあるので……」と下元さん。「11月には新店でスタートしますが、日本におけるディレクターが、一つ先輩の鴨志田康人さんなので、安心感があります。鴨志田さんの服に対する想いや考え方とブランドの哲学がうまく融合して、若い人たちに伝わるお手伝いができればと思っています」と、次のステップに思いを馳せます。

「ポール・スチュアートは、自分にとって、生きていく上での先生のようなものです。上手には言えませんが、お客さまに育てられながら、自分のスタイルを創っていくことができ、感謝しています」。