Brift Ḧ /
BOOT BLACK JAPAN代表取締役
路上の靴磨きからキャリアをスタート。2008年、東京青山にBrift Ḧ(ブリフト アッシュ)開業。2017年、ロンドンで開催された世界靴磨き大会優勝。著書に『靴磨きの本』(2016年)『続・靴磨きの本』(2020年)
靴磨き料金10,000円の裏側
もしもあなたが靴磨きをお店にお願いするとしたら、いくらを想定しますか? 反対にあなたが靴磨き職人だとしたら、いくらに設定しますか?
手軽なところなら1,000円も出せば磨けるでしょう。一方で今回取材している長谷川裕也さんの場合、現在の料金は10,000円です。価格は人に価値をわかりやすく伝えるための手段であり、価格差があることで考えや価値観が生まれます。靴磨き職人、長谷川さんが実行したことのひとつ。それは価格による物事の優劣ではなく、新たな価値の創出でした。
「お店を開いた当初は1,500円からスタートして、そこからガンガン値段を上げてきました。10,000円の価格設定は僕だけで、他のスタッフだと4,000円です。10,000円と言っても税込で10,000円。ちょっとビビりながらやっていたりもします。もうパフォーマンスプライスですよね(笑)。それこそ非難されることも含めていろいろな見方や意見があると思います。でも僕にとっては靴磨きの価値を上げるため、職人の価値を高めるためだけの意味なんです。無理矢理でも靴を磨いて10,000円が可能だということを作ったほうが絶対に良いと思ったんです」。
靴磨きに向けられた長谷川さんの熱量は新しい可能性を見出し、業界の道理を次々に覆します。
“見られる”から、
全てを“魅せる”距離感
本来、職人と使い手の距離は近いようで意外と遠いものです。職人の作業が表立つ機会はあまり多くなく、姿を現さず裏方役としてコツコツと、地道に努力を重ねる。そんなイメージがおそらく皆様にもあるのではないでしょうか。しかし長谷川さんの靴磨きによる距離感は少し違います。職人としてお客様の目の前に立ち、重厚なムード漂う洒落たバーのような空間で革靴に輝きを取り戻していくのです。
「使うブラシは馬、豚、山羊の毛で3種類。作業は常に手の位置を意識して、今どこをブラッシングしているのかお客様にわかるようにしています。あとは会話を楽しみながら。つま先とかかと以外も光らせる磨き方がこだわりです。あ、見てください。ピカピカ感出てきましたよ」。
私たちが取材用に持参した靴を磨きながら笑顔で軽快に会話を続ける長谷川さん。予約される場合の時間枠は1時間、片足20~30分かけて50分程度で両足を磨き終えるそうですが、お客様がこの時間で得ることができる対価は技術の優れた職人によって綺麗に磨かれた靴だけではありません。少なくとも、好きなものを通じてコミュニケーションが生まれる心地良い空間としての機能は、それ以上の価値や気づきにつながっていくはずです。
「南青山の店舗はスタッフが6名いて、全員で年間10,000足ほど磨いています。虎ノ門と大塚にも店舗があって馴染みのお客様が何度も利用してくださったりもしていますが、昔に比べたら磨く足数はだいぶ減りました」。
依頼の減少について考えられることはいくつもあります。靴磨きを趣味に持つ人が増加してきたこと。スニーカーの勢力がより拡大していること。今まで続けてきた料金値上げのこと。ですが長谷川さんの意志は決してブレません。今まで以上に、靴磨きの価値を高めるために進みます。
家事の枠を飛び越え、
文化となる可能性に向かう
「今日はスーツを着ていますが最近は着物で靴磨きをしているんです」。私たちの目に映っている紳士的な装いからはすぐに想像がつかない唐突な言葉もまた、慣習に縛られることのない長谷川さんのスタイルによるものです。
「可能性の話ですが、スーツや革靴は今後もしかしたら着物のようになるんじゃないかと感じることがあります。愛好者も含めて、限られた人だけの存在になる。そうやって先を考えた時に、革靴を磨くことが哲学的にと言いますか、精神性を高めるような行為として捉えることができる気もしています。例えば、茶道。一杯のお茶を飲むために掛け軸があって、花があって、茶碗があって。お茶を通してコミュニケーションを取ることが文化になっています。靴磨きも家事のひとつから、今は趣味にもなり、そこから人生の中での良い時間や人生を見つめ直すことのできる体験にもつながるんじゃないかと思っています。まだ見えない道を進んでいる感じですが、靴を磨くことも極めていくと何か違う世界があるはず。なぜ磨くのか!? 歩き続けるのか!? と問答しながら。何だか禅みたいですね(笑)」。
路上からはじまり、ずっと磨き続けてきたから見えた道。ですがあと数年で自ら靴を磨くことからは身を引くと長谷川さんは断言しています。この意味は、靴磨きの価値を高めるために自分ができることをやり切るという意志表明。情熱に変わりはありません。たとえこの先、何をしていたとしても。
長谷川さんが靴磨きで実際に使用している、馴染みの道具。用途や工程によって細かに使い分けられるブラシやクリームには、それぞれBrift Ḧのロゴが記されていることがわかります。それは自らが立ち上げた看板の印であり、職人の矜持として受け取ることもできます。靴磨きの可能性を開拓する志の強さ、目の前にいるお客様を常に意識して行われる洗練された手磨きの所作がここに宿っています。
三陽山長の「勘三郎」はブランド創業当初から製造している、熟練した匠の技を要する手縫いのスキンステッチを施したUチップシューズです。ミシン縫いでは再現できない、いわば手作業ならではの美しさ。これは職人自身の手に最も馴染む針を作り研ぎ、一足一足を丁寧に作業していることに由来します。
革靴ですので、本来第一に謳うべきは「足に良く馴染む」なのかもしれません。ですがそれは機能として前提であり、私たちの考える最良のものづくりは手馴染みの良さ、そして手作業の美しさをなくして語ることはできないのです。