矛盾を秘めた存在だからこそ
トレンチコートは愛される

中野香織 KAORI NAKANO(服飾史家・著作家)
テキスト:山下英介

中野香織 KAORI NAKANO

日本で最も英国のファッション文化に精通した研究者といわれる、服飾史家の中野香織さん。英国のミリタリーウエアをルーツに持ちながらも、今や大人の女性たちにとってのマストアイテムと言われる稀有なワードローブ=トレンチコートについて、さまざまな角度からお話を伺った。

――中野先生の研究分野において、トレンチコートってどんな存在なんでしょうか?

いきなり壮大なテーマがきましたね(笑)。まずはワンクッション置いてファッション的に語らせていただくと、男性でも女性でも着こなせる上に、その人らしさを表現することのできる、極めて汎用性の高い服だと思います。女性であればジーンズに合わせてメンズライクに着こなしてもいいし、逆に今日の私のようにフェミニンなワンピースを合わせてもいいですからね。

――今日の中野さんの装いは、まるで往年のフランス映画を彷彿させて素敵でした。しかしトレンチコートって、もともとはミリタリーウエアだったはずなのに、女性たちの間で定番化するなんて、面白い現象ですよね。

トレンチコートとは、トレンチ(塹壕)という名前のとおり、極限の環境下で着られてきました。雨や風をしのぐための素材やディテールはもちろん、様々な付属品でカスタムできるようにした、人類史上最強の装備としての服といえるでしょう。塹壕戦が行われなくなって以降このような重装備は必要とされなくなるのですが、それと時を同じくして、ハリウッドの女優たちは1940年代からこのコートを作品中で着はじめるのです。マレーネ・ディートリッヒやキャサリン・ヘップバーンなんて、その代表格ですよね。

――女性たちはこういう無骨なルーツをもつ服に、よく目を付けましたね。不思議といえば不思議ですが。

そうですか? 私は不思議とは思いません。エポレットやベルトのDリングといったトレンチコート特有の装飾要素は、どれも機能としての必然性から生まれているものだから、極めて自然になじんでいる。単純に、洋服としての完成度が高いんですよ。そしてこれらの無骨なディテールや素材が、女性らしさを抑えるようで際立たせてくれます。ちょっと矛盾しているようですが、それがトレンチコートの最大の魅力ですよね。かといって、マニアックな男性のように、Dリングの意味をいちいち気にするような人は少ないですよ(笑)。あくまでファッションとして、こういうハードなものを崩して着るのが楽しいんです。

――その矛盾にこそ惹かれているわけですね。

それがトレンチコートという服の興味深さであり、人間らしさですよね。私は英国の文化からスタートして、その延長線上でスーツやダンディズムの歴史を経て、現在はモードやラグジュアリー領域まで研究の幅を広げていますが、結局掘り進めていくと、同じ鉱脈に行き着くんですよ。

――その鉱脈とはどんなものなんですか?

ザ・人間です(笑)。結局人間ってまわりの影響を受ける生き物だから、どんなに時代が変わったところで、その時代ごとのテクノロジーや政治から影響を受けながら、表現の方法を変えているだけなんですよね。研究者としての私は、それらを解像度高く見ていくことに喜びを感じているんです。

PROFILE

なかのかおり/イギリス文化を起点にスーツ史、ダンディズム史、ファッション史、英国王室スタイル、ラグジュアリー領域へと研究対象を広げてきた独立研究者。著書に『イノベーターで読むアパレル全史』、『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』、『モードとエロスと資本』、『ダンディズムの系譜』他多数、共著に『英国王室とエリザベス女王の100年』、『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済10の講義』。日本経済新聞、Forbes Japan、JBpress autographなど多媒体で連載中。東京大学大学院総合文化研究科博士課程を満期退学。英国ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授、昭和女子大学客員教授などを歴任した。

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