OUR STORY

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ポール・スチュアート流 

そして勿論世界中の最高のものを集めてくるだけではない。それら最高の素材がポール・スチュアートならではの信条を反映した柄、スタイルによって完成されるのである。「TO OUR SPECIFICATION」、すなわちポール・スチュアートらしくする、ということが施されて、ポール・スチュアートの商品となる。
「我々の使う素材は我々の魂であり、志であり、気性とも言える。」と、1980年の秋冬カタログには書かれている。
控えめかつクリーンなライン、ソフトでナチュラルな肩。ポール・スチュアートのスーツはアイビーリーグのそれとは一線を画し、身体の線に沿った優美なシルエットを描く。
またポール・スチュアートの店にあるものは他の店にあるものの一枚上を行く。それはすなわち他の店にグレイやブラウンのヘリンボーンのハリスツイードジャケットがあるとしたら、ポール・スチュアートにはオーバープレイドのハリスツイード 、ディストリクト・チェック・ジャケットがある、ということだ。

ハウス・オブ・スチュアート 

「ハリー・オストロフは指ぬきとともにアメリカに上陸した。」
マイケル・オストロフは1982年にニューヨーク・タイムズ紙にそう語った。彼の曽祖父はロウワー・イーストサイドに「ブロードストリートの店」という名の衣料品屋を開き、その後経営はマイケルの祖父であるラルフ・オストロフが引き継ぎ、また、1937年という大恐慌の真っただ中にその店を売り、自分の紳士服店を開いたのだが、そのときはまだ、店の名前も決まってはいなかった。
クイーンズ区のフラッシングの自宅で寛ぎながら、床の上で遊んでいる息子を見ながら、妻が息子の名前、ポール・スチュアートを店の名前にしたらどうかと提案し、店に名前がつけられた。
こうしてマディソン街から東45丁目に少し入ったところにポール・スチュアートがオープンしたわけだが、最初は近郊の店のようにアイビーリーグの店だった。それが1960年代初頭に現在の店のサイズまで広がっていき、独自のスタイルも確立させていった。70年代半ばにはレディスウェア部門も発足した。そして、1960年代からポール・スチュアート・オストロフは店の顔となり、1951年よりメンバーに加わったクリフォード・グロッドが店の舞台裏を仕切る存在として、アイビーリーグの店を世界的に洗練された店へと作り上げて行ったのである。